地域の歴史


中山城
 中山城は、中山八幡神社の山頂の南北に広がる約六十メートルの尾根筋にある山城で、築城年や城主は不明。細川氏の時代に沼田氏が城主となった。慶長五年、沼田延元は徳川家康軍に加わった細川忠興に従い中山城を留守にしていた。石田三成は留守にしている丹後へ軍勢を送り、留守を守っていた細川幽斎は田辺城に将兵を掻き集めこれと戦った。この時、中山城の留守を守っていた家臣が中山城を焼き払って田辺城に駆けつけ、その後、城は再建されることなく廃城となった。

和江毘沙門堂(仏国山国分寺)

安寿と厨子王の姉弟は由良の里をぬけだし和江の国分寺に逃げ込み、曇猛律師に救を求めたという三庄太夫伝説中の由緒ある寺であったと伝えらている。この国分寺は大火にあい(九五七)伽藍を焼失してしまった。勅願によって建立された寺であったが、財政的に再建の見込みなく、跡に一宇を建て本尊毘沙門天を祀り伝えたと言われている。地元ではこれを本堂さんと呼んで、区民の家内安全と村の繁栄を祈願し崇拝のよりどころとしてきた。その後、幾度か改築され、天保十四年八月上棟された堂宇が腐朽はなはだしくなり、近年、和江区及び有縁者信仰厚き人々によって改築され、平成五年十一月十四日落慶法要が行われた。天保十四年再建当時の寄付板が保存されている。

安寿姫塚
 
 安寿と厨子王は、三庄太夫の仕打ちに耐えかねて、屋敷から抜け出し、和江のカクレ谷にのがれた。ここで二人は別れ水杯を交わし、近くの国分寺に逃げ込み救いを求めました。国分寺の和尚に厨子王の身をあずけて、安寿は佐渡にいるだろう母を求めて旅立った。和江の村人に助けてもらって、川向こうの中山に渡ったが、中山・下東の村の境の峠で疲れと空腹で、ついに亡くなってしまった。下東の村人達は、これに強く心を打たれ、安寿姫の亡がらを山里の奥にお墓を作ってまつったと伝えられている。これが、安寿塚のいわれである。その後、いつの時代かお堂を建てられた。地域では、毎年7月14日を中心に安寿をしのんで 安寿姫塚夏の夜祭りが行なわれている。

湊十二社(神崎)

 神崎地区にある神社で、かつての北前船の基地として由良湊の船主や船頭が安全祈願を行った社。舞鶴市の神崎(かんざき)に「港十二社」があった。
社叢の背後には、由良川が控えているので、北前船の基地だった由良湊の船主や船頭が安全祈願を行った時代から海軍の時代まで、舞鶴の海に関係する人達の信仰を支えたと思われる。この神社の鳥居に書かれた「湊十二社」は東郷平八郎の書と言われている。東郷は、舞鶴鎮守府の初代司令長官だった。この神社も、京都府の神社庁HPには、住所が載っているだけで、由緒や歴史など、詳しい事が分からない。「十二社」と称しているので、海上安全の神様を中心に、多くの神様を祀っていることが想像できる。 北前船の守り神として信仰を集めた。

秋祭り(10月)

奉納和船(湊十二社)

 江戸中期頃からは、日本海を西廻りに大阪へ北国の米を運ぶ航路が開け、主として弁財(べざい)船の、数百石から千石にも達する大型船が就航した。これを北前船と言う。
 舞鶴もその航路にあたり、由良川河口の「神崎」をはじめ、東舞鶴の「市場」などにも、北前船主が現れた。北前船は、幕末になって、日本海の波浪に立ち向かえる形になっていったが、やはり海難の恐怖にさらされており、金毘羅信仰や八幡神社などへの祈願が盛んに行われた。そして弁財船の模型(奉納船)、狛犬、船絵馬などが奉納された。
 舞鶴地域では江戸時代後期ごろから、神崎、由良、竹屋を中心に海運(廻船)業が栄えた。奉納和船は、廻船業に従事した人々が航海の安全を願って船の模型を制作し神社に奉納したものである。市内に現存する奉納和船模型では最古の様式を示しており、帆柱など付属品が残っている。全長194.5センチ

湊十二社奉納和船(右) 江戸時代後期

建部山

 タテベサンよりもここでは普通はタケベサンと呼ばれている。舞鶴西湾に臨む山で西湾より西に見える。喜多と下東にまたがり標高は316m。石英斑岩よりなる白山火山帯の死火山である。山容がすぐれ、田辺富士(丹後富士とも)の名があり、詩歌によまれた。平安時代には笛原寺があったという。
舞鶴湾と田辺城下、由良川が俯瞰でき、宮津街道と由良川水運を扼する交通・軍事の要地を占めるため、中世には頂上に建部山城が築かれた。建武3年に築城され、天正6年に落城した。丹後国守・一色氏は、この山に城を築き居城としたが、細川・明智軍と戦って敗れた。その後は三百年余り平和を保ったが、明治に軍港防御の砲台が備えられ、第二次大戦中には高射砲陣地にも使用された。 建部山と呼ばれる所以は不詳である。

建部山  標高316m

由良ヶ岳

 由良川源流である芦生(あしう)の京大演習林から、京都府の北部を流れる由良川は、宮津市と舞鶴市の境で大河となって日本海に注いでいる。由良ヶ岳は由良川の川口にそびえ、対岸の神崎からはどっしりと構えた双耳峰の山容を目の前に見せてくれる。北西方面の天ノ橋立の阿蘇海からは端整な鋭峰となり、丹後富士、宮津富士とも呼ばれている。江戸期には虚空蔵ヶ岳とも呼ばれた修験道の聖山であり、今も頂上に小さな祠が残っている。頂上から眼下に天ノ橋立、由良ガ浜、由良川の流れを望むことができる。

由良ヶ岳 標高640m

ホフマン窯
 ホフマン窯は、煉瓦を焼くための施設で、ドイツ人技師ホフマンが考案した。通常の煉瓦窯では、焼成前の(生の)煉瓦を入れて焼きあげ、熱が下がってから煉瓦を取り出し、また生の煉瓦を入れ…といった工程で、火を点けて消しを繰り返すことになる。ホフマン窯では、窯をドーナツ状の輪につなげることにより、火を消さずに、大量に、効率よく、連続して製造できる。こうした連続工程により煉瓦の大量生産ができるようになった。
神崎の地でれんがが焼かれるようになったのは、軍港建設がはじまった明治30年代からのこと。由良川沿いの上流の土を原料として小舟で搬入し、登り窯でれんがを焼き、出来上がったれんがは船で舞鶴に運ばれ、海軍に納入された。大正時代の末頃になって、大量に、効率よく、連続して製造できるようにドイツ人のホフマンが考案したホフマン式輪窯に改良された。11本の小煙突も、この時に加わった。その後、神崎でのれんがづくりは戦後も続けられたが、需要が少なくなってきたため、昭和33年頃に製造を中止した。  
全国的には、昭和30年には57基のホフマン窯があったが、現在は稼働中のものはなく、神崎を含め5基が残るのみとなった。平成11年、神崎ホフマン窯は国の有形登録文化財に登録された。平成22年、保存にむけた所有者の努力と決断、文化庁、研究者ほか関係者の熱意により、現状の把握と保存方法を考えるための調査が実施されることになった。